スターリングラード防卫戦についてソ连胜利の原因及び歴史の影响.docx
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スターリングラード防卫戦についてソ连胜利の原因及び歴史の影响
毕业论文
题目スターリングラード攻防戦について
ソ連勝利の原因及び歴史の影響
专业
班级
姓名
指导教师
所在学院
完成时间:
2014年月
摘 要
斯大林格勒会战,又称斯大林格勒保卫战,是二战中前苏联卫国战争的主要转折点,是第二次世界大战的转折点,也是人类历史上最为血腥和规模最大的战役之一。
战役包括下述部分:
1942年5月德军横扫苏联西南地区,逼近斯大林格勒;德国空军对苏联南部城市斯大林格勒的大规模轰炸行动;德军攻入市区;市区巷战;苏联红军反击;最终合围全歼轴心国部队。
轴心国一方在这场战役中损失了其在东线战场四分之一的兵力,并从此一蹶不振直至最终溃败。
对苏联一方而言,这场战役的胜利标志着收复沦陷领土的开始,最终迎来1945年5月对纳粹德国的最后胜利。
关键字:
斯大林格勒战,历史影响,巷战,历史回顾
要 旨
スターリングラード会戦はまたスターリングラード防衛戦と名付ける、第二次世界大戦の中で前ソビエト連邦自衛の戦争で一番重要な分岐点となる、第二次世界大戦の分岐点は、人類の歴史の上で最も血生臭いと最大規模の戦争の一つであった。
戦いは下記の部分となる:
1942年5月ドイツ軍のソビエト連邦西南部に焼き尽くしたとともに、スターリングラードを迫った;ドイツ空軍はソビエト連邦南部の都市スターリングラードの大規模な爆撃をされた;市区を攻めたことにより市街戦をした、ソビエト連邦紅軍の反撃、最終的に枢軸国部隊を全滅した。
枢軸国側はこの戦いで損をしたその東線戦場の四分の一兵力であった、そしてそれから落ちこぼれの最終までに敗退された。
ソビエト連邦側にとって、この戦いでの勝利は領土の陥落を回復し始めたとシンボする、ナチス・ドイツに対しては最終的に1945年5月の最後勝利を迎えた。
キーワード:
スターリングラード攻防戦、歴史的な影響、市街戦、歴史的な回顧
目 次
摘 要
要 旨Ⅱ
目次
1、スターリングラード攻防戦の概要5
2、戦いの目的5
3、戦いの背景7
3.1ブラウ作戦発動9
3.2ヴォロネジでの停滞9
4、スターリングラード攻防戦の展開11
4.1ドイツ軍の攻撃開始12
4.2スターリングラードにより生まれた市街戦13
4.3第二次大戦の行方を決定づけた重要な戦い14
5、スターリングラード攻防戦の影響18
6.おわりに19
参考文献20
謝 辞22
1、スターリングラード攻防戦の概要
スターリングラード戦は第二次世界大戦中にナチス・ドイツがソビエト連邦南部の都市スターリングラードを争奪した戦いで、時間は1942年6月28日から1943年2月2日までであった。
スターリングラード戦役は第二次世界大戦東部戦線の分岐点となった、この戦いの後は徐々にソビエト連邦が戦略の主導権を握っているが。
単に犠牲者の数字から見れば、該当戦いは近代の歴史の上で最も血なまぐさい戦争であり、双方の死傷者は約2000,000人となった、この戦いに参加した人数は歴史上の他の戦いより多いである、さらには双方が軍事と民間人の区別を無視することにより招かれた死傷者が有名であった。
スターリングラード攻防戦はファッショのドイツ境遇の戦略的最悪の失敗に終わり、だけでなくドイツ南集団軍群は1941年以来の攻勢を維持する局面、しかもの直接の原因とソビエト連邦ドイツ全体の力関係の根本的な変化。
世界的に見て、スターリングラード会戦同時期に起こったガダルカナル島戦になって一緒に、1942年末反ファシズム戦争の大転換のシンボル的な事件であった。
2、戦いの目的
ソ連侵攻作戦が失敗に終わり、前年の敗北から立ち直ると、ヒトラーは新たな作戦を考えるようになった。
宿敵ソ連を一挙に片付ける方法、それは、ソ連の血液とも呼べる石油の輸送ルートを断ち切ることであった。
ソ連にはただ一つの泣き所、つまり、アキレス腱にも相当するものがあった。
それは、巨大な軍事力のほとんどすべてを一カ所からの石油に依存しているという事実であった。
ソ連は、コーカサスにあるバクー、マイコフ、グローズヌイの油田群に頼っていたのである。
もし、コーカサスにあるこれらの油田地帯の占領に成功すれば、ソ連の巨大な軍事力は、動力源を失うことになり、間違いなく弱体化し崩壊するであろう。
つまり、水を断たれた大木のように枯渇し、朽ち果ててしまうだろうと予想されていた。
しかも、そうなれば、ドイツは、逆に長期戦に備えることの出来る莫大な資源を確保することが出来るのである。
ヒトラーは、ドイツ軍がこの作戦に成功すれば、様子見を決め込んで中立を守っているトルコを枢軸側に引っぱり込めるかもしれないと考えていた。
そうなれば、ドイツの勢力はペルシアまで進出することが可能となり、イラン経由でアメリカからソ連へ送られる物資の補給路を遮断することが出来る。
同時に、中東の油田地帯とスエズ運河を手に入れることも可能となり、アフリカで今まさに奮戦中のロンメル軍団とともにイギリス勢力を一掃できるのだ。
そして、枢軸のもう一つの友邦国、日本とインドで手をつなぐことも夢ではなくなる。
その後は、軍を北上させ、麻痺して満足に動けなくなったソ連軍を尻目に、モスクワ、レニングラードの順で壊滅させていけばよい。
総仕上げは、ドイツ軍の攻撃を避けて、安全地帯にまで疎開したウラル彼方の工場群をたたき潰ぶすことであった。
雄大で野心的なこの考えに、ヒトラーは自己陶酔し眼をぎらつかせた。
彼が見つめる地図上には、赤で何重にもチェックされた一つの都市が映っていた。
将軍たちとともに、作戦を練るヒトラー、会議室は禁煙で、ヒトラーの好みに合わせて摂氏11度ほどに調節されていた。
会議は長時間にも及ぶことが多く、あまりの寒さから持病のヘルニアを悪化させた将軍もいたという。
出所:
バイドウ百科事典の第二次世界大戦によるものである。
大きくうねってカスピ海に注ぐボルガ川はソ連の動脈にも等しいものであった。
ここには、毎日のように、コーカサスの油田地帯から、石油を満載したタンカーが、忙しそうに多数往来していたのである。
その西岸に位置する都市、スターリングラードこそ、この計画を可能にする鍵を握っていたのであった。
まさに、スターリングラードは、石油を満載したタンカーの重要な中継基地であるばかりでなく、鉄道輸送の一大中継基地にもあたっていたのである。
言わば、水陸での大補給基地であった。
宿敵ソ連の息の根を止めるには、スターリングラードを落とし補給ルートを断つこと。
どうしても、この都市を押さえねばならない理由がここにあったのである。
そのために、ヒトラーが集めた兵力は、途方もなく巨大なものになった。
その兵力は実に5個軍、89個師団にも相当するもので、兵員数で言えば、120万、火砲1万、戦車4千両、航空機3千機にもなり、これは、東部戦線に展開していた全ドイツ軍の70%以上に匹敵する巨大な軍事力であった。
こうして、ヒトラーはこの都市に特別な感情を抱いて、のめり込んで行くことになる。
もはや、前年の失敗で将軍たちを信頼していないヒトラーは、自らの手で作戦の詳細を書き上げ、総統指令第41号として全軍に発令した。
それによると、「使用可能な全兵力をロシア南部に集中し、この方面の敵軍を撃破殲滅し、コーカサスの油田地帯を奪取せよ。
いかなる犠牲を払おうとも、スターリングラードを攻略し、この都市を永久に地図上から抹殺すべし」という恐るべき内容であった。
かくして、スターリングラードの攻防戦こそが、第二次大戦の行方を決定づけた重要な戦いとなっていくことになる。
しかし、この戦いこそが、第二次大戦を通して、最も過酷で悲惨な戦いになる運命にあった。
3、戦いの背景
1941年6月、ドイツ軍はソ連領内に侵攻を開始(バルバロッサ作戦)した。
作戦の第一段階は順調に推移し、10月には首都モスクワ攻略を目的としたタイフーン作戦が発動されるが、ソ連軍の頑強な抵抗とナポレオンも苦しんだ冬将軍の影響で作戦は失敗。
大きな損害を払いつつ後退したドイツ軍だったが、何とかノブゴロド、カリーニン、スモレンスク、ハリコフを維持して冬の戦線を持ちこたえた。
翌1942年5月、いわゆる春攻勢に出たソ連軍はセミョーン・チモシェンコ元帥の下でハリコフの奪回を図るが、ドイツ軍は第6軍と第1装甲軍の南北からによる後方遮断でこれを阻止・殲滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。
これによりドイツ軍は再び攻勢の時期を迎えるが、もはや前年のバルバロッサ作戦のようにバルト海から黒海にいたる全戦線で大規模攻勢を行う戦力はなかった。
そこで、ソ連の石油供給源であり、ペルシア回廊を通じての英米からのレンドリースの経由地であったカフカース地帯に着目し、南方軍集団の戦線に限定された反攻を計画。
以下の手順によるブラウ作戦が立案された。
ドネツ川に沿いながらウクライナ東部ルハンシク州のドンバス炭田地帯を抑える。
ドン川と、カフカース方面からモスクワに向かう鉄道が交わる要衝ロストフ・ナ・ドヌを占領する。
カフカースに進撃して、マイコープおよびグロズヌイの油田を確保する。
グロズヌイで、バクー油田からアストラハンを経て航空産業が盛んなサラトフ方面に向かう鉄道を遮断する。
同時にドン川東岸の側面を抑え、スターリングラード市付近でヴォルガ川の水上輸送路を遮断し、市内の大工場を破壊する。
本来ならカフカースの占拠による油田の奪取こそが作戦の主目的であり、スターリングラードの確保は副次的なものに過ぎなかった。
しかし、ヒトラーはスターリンの名を冠した都市の占領による政治的効果とそれにともなう敵軍の士気の低下を期し、スターリングラードの攻略に必要以上の執着を抱いていた。
また、ドイツ軍の得意とする電撃戦は機動戦においてその優位性を発揮するものであり、都市の攻略に付随する市街戦に向いた戦術ではなかった。
さらに、前年のアメリカの宣戦布告にともない、ドイツの戦争指導部中枢にはできるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいという思惑があった。
これらの危険要素を抱えながら、ドイツ軍はブラウ作戦を実行に移す。
3.1ブラウ作戦発動
スターリングラードとは、そもそもドイツ軍の夏季攻勢「ブラウ作戦」上の作戦途中の地名であり、当初戦略意味を持つとは思われていなかった。
当初はカフカース地方の油田地帯の占領を目標としていたが、ヒトラーはスターリンの名を冠したこの街の占領に躍起になったと言われている。
6月28日、フェードア・フォン・ボック元帥指揮の南方軍集団は中央軍集団から戦力を引き抜いて大攻勢「ブラウ作戦」を開始した。
100万の兵力はドン川を渡りカフカース地方の油田地帯を攻めるA集団と、その側面を進み、スターリングラードでヴォルガ川を封鎖するB集団に分けられて進軍した。
なお、B集団はマクシミリアン・フォン・ヴァイクス大将指揮の下、第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア、ハンガリー、ルーマニアの30万兵によって行われた。
当初は計画通りに進んだA集団ではあったが、前面に立ちはだかるカフカース山脈、更にカスピ海、黒会などから増援を受けたソ連軍の猛反撃を受けた。
更に9月に入るとグロズヌイから70キロ前面のテレク川で戦線は完全に膠着した。
9月9日にヒトラーはA軍集団司令官のリスト元帥を罷免し、後任のクライスト上級大将に充てられたのは11月22日であった。
このようにドイツ軍内でのごたごたもあり、A軍集団の当初の作戦は完全に失敗してしまった。
そこで、B軍集団のヴォルガ川遮断にヒトラーの目的は移っていったのである。
ソ連軍はブリャンスク方面のヴォロネジ市街地に拠点を構えて強力な抵抗をした。
ドイツ軍は2個装甲師団を投入してこれを占領したのは7月13日だった。
更にドン川下流の制圧まで7月下旬までかかってしまった。
ヒトラーは7月15日に司令官のボック元帥を更迭し、軍集団司令部をB軍集団司令官ヴァイクスのもとに統合した。
3.2ヴォロネジでの停滞
北の集団は6月28日にクルスク方面からドン川に向かって南東に攻撃を開始。
まず、第2軍と第4装甲軍、ハンガリー第2軍が左翼となってドン川をめざし、30日には第6軍がドネツ川を渡って右翼を担った。
第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日からイリューシン設計局の航空機工場があるヴォロネジを2個師団の兵力により攻撃した。
一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。
しかし疑い深いスターリンは、ドイツ軍はヴォロネジからオリョール、さらにモスクワにむけて北上するだろうと考え、命令書はワナだと判断する。
これにもとづき、フィリップ・ゴリコフ中将のブリャンスク方面軍は、ドイツ軍の予想に反して帝政ロシア軍以来の伝統である後退戦術をとらず、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。
その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領した。
このため南方軍集団が足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかり、その間チモシェンコは残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。
全体的に見てソ連軍は、広大な領土を敵に明け渡すのと引き換えに軍が再編される時間を確保し、あわせて補給困難な地点まで敵軍を手繰り寄せる伝統的軍事対応に成功した。
これにより、ドイツ軍のブラウ作戦は初期段階で修正を余儀なくされる。
都市の占領にこだわるあまり戦略的目標を見失うという失策は、後の戦局の推移から勘案するとドイツ軍にとって不吉な前兆だったといえよう。
こうしたおり、ヒトラーはドン川→カフカースという二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦を、二方面同時攻勢に変更させた。
7月7日、北の集団はドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカース地方の油田地帯を攻める中央の集団(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。
第17軍、第1装甲軍など兵力100万)と、チモシェンコを追撃・撃破しつつドン川沿いに進みながらスターリングラードでヴォルガ川を封鎖するというブラウ作戦を継承した一番下の集団(フェードア・フォン・ボック元帥指揮。
第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍など兵力30万)に分割される。
こうした兵力分割は、機動力の確保と補給を困難にさせた。
4、スターリングラード攻防戦の展開
フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍は、8月16日までにドン川西岸をすべて確保し、グスタフ・アントン・フォン・ヴィータースハイム(GustavAntonvonWietersheim)歩兵大将の第14装甲軍団とヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将の第51軍団を先頭に、いよいよスターリングラードに迫る。
当時人口60万であったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者ヨシフ・スターリンが革命時のロシア内戦においてデニキン将軍の白衛軍に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的にみた場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川にむかって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはカフカースや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。
さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは五カ年計画において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。
とくにトラクター工場は、独ソ開戦とともにT-34戦車の主力生産拠点だったハリコフ機関車工場やキーロフスキー工場(レニングラード市)が疎開を強いられる一方、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場(ゴーリキー市)やウラル戦車工場(ニジニ・タギル市)の操業が本格化する以前においては、T-34戦車の最も有力な組立工場であった。
市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年のコムソモール(共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵。
さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。
また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、ロストフ奪回の策源地にもなりえた。
4.1ドイツ軍の攻撃開始
8月23日、情報を与えられていなかったスターリングラード市民は通常と同じように平穏な日曜日の朝を迎えたが、一瞬にして地獄の世界に直面する。
ゲルニカ以来、絨毯爆撃を主導してきたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将の第4航空艦隊は、市街に対して航空機のべ2000機による、爆弾総量1000トンにのぼる猛爆撃を加えた。
続いてB軍集団による総攻撃が開始された。
ここに150日におよぶ戦いの幕が開かれる。
まず、ヴィータースハイム大将指揮の第48装甲軍団は、早朝にドン川から出撃したハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm高射砲を使ったトラクター工場の女性労働者たち(コムソモールの少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。
しかし、市街地への南下は阻止された。
このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。
この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。
ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。
8月28日になってスターリンはようやく非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。
しかし、激しい爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は無数の遮蔽物をもたらし、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。
スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。
ただし、彼は第二次ハリコフ攻防戦での大敗北という失策を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した北西方面軍へ異動となり、ワシーリー・ゴルドフ中将が交代した。
しかし、ゴルドフはドン湾曲部の防衛戦で成果があげられなかったために更迭され、8月1日にアンドレイ・エレメンコ大将が軍司令官となった。
エレメンコは、2月に行われたデミャンスク包囲戦の際、第4打撃軍を指揮してトロペツを攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。
エレメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。
さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。
スターリングラード市内における防衛の中心を担ったのは第62軍で、司令官はアントーン・ロパーチン中将だった。
ロパーチンは撤退戦で能力を発揮した。
しかし、戦線の崩壊で心身ともに消耗し、街の防衛に悲観的になっていたため更迭される。
彼に代わり、第64軍司令官代理だったワシーリー・チュイコフ中将が9月12日に新たに司令官に任命された。
チュイコフは、のちに第8親衛軍司令官としてベルリン攻撃の主力となり、防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリンク砲兵大将の降伏を受け入ることとなる。
また、参謀長には対日参戦で活躍することとなるニコライ・クルイロフ少将が就いている。
パウルスが司令部を戦場から離れた地点に置いたのに対し、チュイコフは最前線近くに司令部を置き、文字通り陣頭で指揮を行った。
4.2スターリングラードにより生まれた市街戦
ところが、それからまもなくして、ソ連軍の抵抗は次第に激しくなり、ついに、建物一つ取るだけでも大変な困難を伴うようになってゆくのである。
8月25日がスターリングラードの完全占領の期日に決められていたが、皮肉なことに、その日を境に、ソ連軍の抵抗は信じられぬほど頑強になり、ついには、びくともしない一枚岩のようになってしまった。
わずか、数メートルの土地を取るために、考えられない死者が出始めた。
わずか4日ほどの戦闘で1万人ほどの将兵が跡形もなく消滅してしまうこともあった。
戦闘は街の一角、一つの建物を奪い合う肉弾戦になった。
路地と路地を挟んで、わずか十数メートル先の建物には敵がいるのである。
どこから敵の狙撃兵が狙っているかわからなかった。
長時間の窮屈な姿勢に我慢できずに、ほんの少し体の姿勢を変えたり、手を上にかざしたために、指を失ったり眉間を撃ち抜かれた者も多数いた。
薄暗い穴から穴へ、狭い路地から路地へ、廃墟となった建物の中で、息を潜めて殺し合う様は、まるでネズミの戦争のようであった。
あるトラクター工場での戦闘は酸鼻を極めた。
煙幕弾が張られ、ドイツ兵が一斉に突撃するが、たちまち、どこからか機関銃が火を噴き、5分足らずの間に、数百人のドイツ兵が蜂の巣にされてバタバタと倒れた。
工場周辺には、3千人を越えるドイツ兵の死体がそこら中に散乱していたが、これだけの犠牲者がわずか1日分の戦闘で出るのである。
決死隊が潜入して機関銃座を爆破しても、ソ連軍は二階に逃げ込み、そこから射撃して来る。
多大な犠牲を出して皆殺しにしていくが、今度は、ソ連兵は地下に逃げ込んで最後の一人まで抵抗するのである。
戦闘は、アリの巣のように張り巡らされた地下水道内でも行われた。
凄まじい銃撃戦が、真っ暗闇の中で行われた。
目もくらむような閃光が走り、耳のつんざくような銃声が狭い水道内で鳴り響いた。
ここには、多数の女子供がボロにくるまって避難していたが、人が潜んでいそうな窪みは、容赦なく火焔放射器が突っ込まれて焼き払われていった。
市街戦は凄惨を極め、地獄の様相を帯び始めた。
ここでは、ジュネーブ協定など存在せず、降伏することも捕虜になることもあり得なかった。
ソ連兵は、ドイツ兵を殺すことのみに喜びを感じているかのようであった。
例え、赤十字をつけていようが、捕らえられたりしたらおしまいなのであった。
特に、将校は針金で縛られて、拷問された上、念入りに殴り殺された。
遺体はすべて醜く赤黒くボールのように膨れ上がっていた。
撲殺しても、まだ腹の虫が治まらぬのか、手足をバラバラにされている遺体もあった。
一方、ドイツ軍の方でも、ソ連兵を人間とは思っておらず、害虫を駆除するかのように虫ケラのごとく焼き殺していった。
占領の期日をとうに過ぎても、一向にはかどらないことに苛立ったヒトラーは、あらゆる兵力を手当たり次第に投入し始めた。
ベルリンからは、市街戦専門に訓練された部隊が到着しては矢継ぎ早に投入された。
最後には、予備の兵力もどんどん投入された。
もはや、ヒトラーの頭の中には、当初の目標などどうでもよく、スターリングラードを地上から消滅させてしまうことの方が大事であるかのように思われた。
一方、ソ連の独裁者スターリンも、自分の名のついたこの都市で負けるわけにはいかず、双方ともに、一歩も引くことなく、持てる兵力のすべてをつるべ打ちに投入していく結果となった。
まさに、東西の独裁者同士の意地とメンツのぶつかり合いに発展していったのである。
4.3第二次大戦の行方を決
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