中国采棉女.docx
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中国采棉女.docx
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中国采棉女
中国(ちゅうごく)の河南省(かなんしょう)から新疆ウイグル自治区(じちく)へ出稼ぎ(でかせぎ出去工作)にいく女性(じょせい)たちです。
河南省の各地の駅から列車(れっしゃ)に乗り込み(のりこみ)ます。
三千五百キロ(さんぜんごひゃっきろ)、鮨詰め(すしづめ挤满)の列車の中で三泊(さんばく)四日(よっか)を過ご(すごす)します。
新疆ウイグルは質(しつ)の良い綿花(めんか)産地(さんち)として知られています。
河南の女性たちはこの畑に(はたけ)雪が降り積む(つむ积累)まで三ヶ月(さんかげつ)綿花を摘み(つみ)続け(つづく连续)ます。
河南省は内陸(ないりく)部(ぶ)に有り、広さ(ひろさ)は北海道(ほっかいどう)の二倍(にばい)です、 地形(ちけい)は山勝ち(やまがち)で農業(のうぎょう农耕)に適した(てきした合适的)土地(とち)が少ない(すくない)のが特徴(とくちょう)です。
人口(じんこう)はおよそ(大概)九千七百万人(きゅうせんななひゃくまんにん)、中国で最も(もっとも)人口の多い省です。
その七割(ななわり3折)の人が農村(のうそん)に暮らし(くらし)ています。
しかし(然而)千四百万人もの人たちが耕す(たがやす)土地を持てず、ほがの職(しょく工作)にも就け(つける使从师,跟着学习)ずにいます。
多くの人たちにどのように働く(はたらく)機会(きかい)を与え(あたえ)、その暮らしを豊か(ゆたか)にしていけるか、中国にとって多きな課題(かだい)です。
労務輸出(ろうむゆしゅつ)を促進(そくしん)しようという横断幕(おうだんまく横幅)労務輸出は人手(ひとで)の余って(あまって)いるところから足りない(たりない)ところへ労働力(ろうどうりょく)を移す(うつす)政策(せいさく)です。
河南省は二千四年(にせんよんねん)始めてこの政策を導入し(どうにゅうし)労働力不足(ふそく)に悩む(なやむ)新疆ウイグルへ女性たちを送る(おくる)ことにしました。
行政(ぎょうせい)が管理(かんり)することによって賃金(ちんぎん)と未払い(みはらい)などのトラブルを防ぎ(ふせぐ)、大規模に(だいきぼ)出稼ぎを行う(おこなう)というものです。
目標(もくひょう)は十万人です。
八月十八日(はちがつじゅうはちにち)、河南省と新疆ウイグルから関係者(かんけいしゃ)が集め(あつめ)られました。
ごそりさんは河南省北部(ほくぶ)の老店郷地区(ろうてんごうちく)の担当者(たんとうしゃ)の一人です。
各地の村(むら)を回り(まわり)出稼ぎにの希望者(きぼうしゃ)を募ります(つのります)、この日希望者がいるという農家(のうか)は訪れました(おとずれる)この家(いえ)は玉蜀黍(とうもろこし)を栽培し(さいばいし)生計(せいけい)を立て(たてる)ています、家族(かぞく)で話し(はなし)合って(合う)お嫁さん(およめさん)のかんごなさんが出稼ぎに行くことにしました。
子供はお母さんが面倒(めんどう)を見ます。
友達同士(ともだちどうし)の女(おんな)の子二人(こふたり)も出稼ぎに申し込み(もうしこみ)ました。
ようせいさん十七歳、中学校(ちゅうがっこう)卒業(そつぎょう)しても仕事(しごと)がなく、家で過ごしできました。
ごれれさん、十九歳、仕事といえば、時々(ときどき)家の畑を手伝う(てつだう)くらいでした。
親(おや)からお金(かね)を借り(かり)、出稼ぎに備えて(そなえて)買い出しに(かいだしに)行きます。
ビスケットに御煎餅、見知らぬ(みしらぬ)土地(どち)に店(みせ)があるのかどうかも分かりません。
インスタントラーメンもたくさん買いました。
新疆ウイグルは砂漠地帯(さばくちたい)にあり、雨(あめ)もほとんど降らず、環境(かんきょう)が全く(まったく)違い(ちがい)ます。
三月近く(ちかく)綿花摘み(つまみ)の労働(ろうどう)に耐え(たえる)られるのかどうか健康(けんこう)診断(しんだん)も行われました。
九月一日(くがつついたち)女性たちが出稼ぎに出発(しゅっぱつ)します。
かんごのさんは老店郷(ろうてんごう)で生まれ(うまれ)、同じ(おなじ)村(むら)の農家(のうか)に嫁ぎ(とつぐ)ました。
三歳になる一人娘(むすめ)のファンファンちゃんです。
出稼ぎに出る(でる)のは初めて、村を出たこともほとんどありません。
ファンファンちゃんをお母さんに預けて(あずける)出発です。
これれさんはお金を稼いで(かせいで)将来(しょうらい)に役立て(やくだてる)たいとたい考え(かんがえ)ています。
ようせさんは親戚(しんせき)の叔母さん(おばさん)に出稼ぎに行くことを進め(すすめ)られました。
ようさんのお父さんは玉蜀黍(とうもろこし)を作って(つくる)います。
年収(ねんしゅう)は五千元(ごせんげん)、日本円(にっぽんえん)で七万円です。
河南省の労務輸出(ろうむゆしゅつ)、募集(ぼしゅう)するのは女性です。
忍耐力(にんたいりょく)の要る(いる)綿花摘み(つみ)は昔(むかし)から女性の仕事(しごと)とされてきました。
自分(じぶん)の家で使った(つかった)肥料(ひりょう)の袋(ふくろ)、詰め(つめ)られているのは薄い(うすい)布団(ふとん)に作業着(さぎょうぎ)。
そして、列車の中で食べるラーメンなどです。
河南省の各地から九百二十輌の専用(せんよう)列車が特別に(とくべつに)仕立て(したて)られました。
河南省から新疆ウイグル自治区(じちく)のウルムチまで三千五百キロ。
六十二時間(じかん)、三泊四日(さんばくよっか)の旅の(たびの)始まりです。
貧しい(まずしい)農村(のうそん)地帯(ちたい)の多い、河南省の女性たちは我慢(がまん)強く(つよく)逞しい(たくましい)といわれてきました、かさんも瘠せた(やせた)土地(とち)を夫(おっと)とともに耕し(たがやし)、子供を生み(うみ)育て(そだて)できました。
楊さんも、列車に乗る(のる)のは初めてです。
楊さんの夢(ゆめ)はいつか都会(とかい)に出て(でて)仕事(しごと)することです。
ごさんは去年(きょねん)出稼ぎに行き、食堂(しょくどう)で働き(はたらき)ました。
しかし、給料(きゅうりょう)が月(つき)に日本(にっぽん)円で四千円あまりとあまりに安い(やすい)ので、帰って(かえって)来て(きて)しまいした。
狭い(せまい)列車の中では体(からだ)を思う(おもう)ように伸ばす(のばす)こともできません。
交替(こうたい)で座席(ざせき)が空け(あく)一人(ひとり)で寝るようにしました。
列車での食事(しょくじ)はインスタントラーメンです。
列車の給動機(きゅうどうき)のお湯(おゆ)は一日(いちにち)二三回(かい)しかでないため大変(たいへん)な混雑(こんざつ)となります。
熱湯(ねっとう)で焼け(やけ)どをした人(ひと)もいました。
新疆ウイグルに広がる(ひろがる)ゴビ砂漠(ごびさばく)、中国(ちゅうごく)はこの広大(こうだい)なゴビ砂漠で農作物(のうさくぶつ)が少し(すこし)でも取れる(とれる)よう。
長年(ながねん)開発(かいはつ)に取り(とり)組ん(くん)できました。
綿花栽培(さいばい)もその成果(せいか)のひとつです。
九月四日(くがつよっか)朝四時,列車は三泊四日(さんばくよっか)の旅(たび)を終(つい)え、ウルムチ西(にし)駅(えき)に着け(つけ)ました。
ウルムチは新疆ウイグル自治区(じちく)の中心(ちゅうしん)都市(とし)です。
カザクスタンやモンゴルなど中央(ちゅうおう)アジアの国に近く(ちかく)、河南省とは気候(きこう)も風土(ふうど)全く(まったく)違い(ちがい)です。
イスラム教徒(きょうと)が多く、モスクが彼方此方(あちこち)に見られます。
ウルムチの郊外(こうがい)には多くの綿花の加工(かこう)工場(こうじょう)があります。
畑(はたけ)から収穫(しゅうかく)された綿花はごみなどの雑ざり(まざる)物(もの)を除いて(のぞく)出荷(しゅっか)されます。
新疆ウイグルの綿花畑は中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)成立(せいりつ)後(ご)人民(じんみん)解放軍(かいほうぐん)によって開発(かいはつ)されました。
新疆兵団(へいだん)の文字(もんじ)はその名残(なごり)です。
工場から少し(すこし)離れ(はなれ)たところに老店郷(ろうてんごう)地区(ちく)から来た人たちが寝泊り(ねとまり)する、宿舎(しゅくしゃ)があります。
食事(しょくじ)に使う(つかう)ボウル一つと箸(はし)が配(くばる)られます。
宿舎は農機具(のうきぐ)の倉庫(そうこ)として使われていた建物(たてもの)です。
鉄(てつ)パイプと板(いた)で三段(さんだん)の寝床(ねとこ)が作(つくる)られました。
ごさんは家では一人(ひとり)部屋(へや)をもらっていました。
楊さんは妹(いもうと)と一緒(いっしょ)の部屋でした。
かんさんの側(そば)には娘のファンファンちゃんがいました。
建物(たてもの)の天井(てんじょう)まで届く(とどく)寝床。
綿花畑で働く(はたらく)以外(いがい)はずっとここで過ごすことになります。
長旅を(ながたび)終えた(おえる)翌日(よくじつ)から日の出とともに早速(さっそく)作業(さぎょう)が始まりました。
宿舎(しゅくしゃ)から綿花畑(はたけ)まで五キロです。
砂漠を開発(かいはつ)して作(つく)られた綿花畑です。
ダムを建設(けんせつ)し水(みず)が引かれ(ひかれる)、風や(かぜや)砂(すな)を防ぐ(ふせぐ)ため木々(きぎ)が植えられました(うえられました)。
綿(わた)の樹は(きは)八月じゅう中旬(ちゅうじゅん)に花(はな)を咲かせた(さかせた)後(あと)実(み)をつけます。
実が熟し(じゅくす)殻(から)が弾けて(はじける)白い(しろい)繊維(せんい)が溢れ出る(あふれでる)と収穫(しゅうかく)です。
綿花摘みは始まりました。
摘み方(かた)を教え(おしえる)ているのは綿花は栽培(さいばい)している地元(じもと)の農民(のうみん)です。
帽子(ぼうし)は髪(かみ)の毛(け)が落ち(おち)、綿花に混じる(まじる)のを避ける(さける)ためです。
枝の先(さき)についた綿花を一つ一つ(ひとつ)摘み取り(つまみとり)。
お腹(おなか)に附けた(つけた)袋(ふくろ)に入れ(いれ)ています。
単調(たんちょう)の作業(さぎょう)に見え(みえ)ますが、丁寧(ていねい)に一つ一つ摘む(つまむ)かどうかで、収穫(しゅうかく)量(りょう)に大き(おおき)な差(さ)が出てきます。
こさんと楊さん、初めての綿花摘みです。
綿の樹は高さ(たかさ)が六十(ろくじゅう)センチから八十センチ。
綿花を摘み取るためには一日中(いちにちちゅう)中腰(ちゅうごし)で作業しなかればなりません。
乾燥(かんそう)してい堅く(かたい)なった枝(えだ)や葉(は)が肌(はだ)を刺します。
(さす)この畑で広さ(ひろさ)は東京(とうきょう)ドームのおよそ二点五倍(にてんごばい)、七十人がかりで四五日(しごにち)で摘み終えです。
翌日(よくじつ)からはまた次(つぎ)の畑を移って(うつる)行きます。
一日の作業は日の出から日没ま(にちぼつ)までおよそ十二時間です。
かんさんも家で畑仕事(しごと)はしていましたが、綿花摘みは初めてです。
綿花を詰める(つめる)袋(ふくろ)は一人一人(ひとり)に支給(しきゅう)されます。
袋にいっぱい詰めると四十キロになります。
綿花は詰めるトラックが一日二回(いちにちにかい)昼(ひる)と夕方(ゆうがた)に遣って(つかう)来ます。
支払(しはらい)われる賃金(ちんぎん)は収穫(しゅうかく)した綿花の重さ(おもさ)によって決め(きめ)られます。
賃金は一キロ七角(ななかく)日本円(にっぽんえん)ておよそ九円。
袋いっぱい四十キロ収穫して三百五十円です。
夜(よる)八時(はちじ)ようやく宿舎(しゅくしゃ)に戻り(もどり)ました。
風呂(ふろ)もシャワーもありません。
水道(すいどう)が壊れ(こわれ)ていて使える(つかえる)蛇口(じゃぐち)が少ないため、洗面器(せんめんき)に水(みず)を汲ん(くむ)できてみんなで使います。
夕食(ゆうしょく)は白菜(はくさい)だけの炒め(いため)物と蒸しパン(むしぱん)にお粥(おかゆ)です。
夕食(ゆうしょく)の中味(なかみ)は毎日同じ(おなじ)です。
食費は一日三元(さんげん)、四十五円ほどで、最後(さいご)に賃金から引かれます(ひく)。
夕食の後(あと)はお喋り(おしゃべり)の楽(たのしい)しんだ後眠り(ねむり)につきます。
テレビもラジオもありません。
新疆ウイグルの年間(ねんかん)の降雨量(こううりょう)は百四十五ミリ。
日本の十分(じゅうぷん)の一も降りません。
強い(つよい)日差し(ひざし)が照り(てり)付け(つけ)ます。
(てりつける)九月中旬(ちゅうじゅん)、日中(にっちゅう)の気温(きおん)は四十度(ど)にもなりました。
強い日差し乾燥(かんそう)、そして夜の冷え込み(ひえこみ)。
この厳しい(きびしい)気候(きこう)が新疆ウイグルの綿花を質(しつ)のよいものに育て(そだてる)ています。
日差しがいくら照り付け(てりつけ)ても、空気(くうき)が乾燥しているため、汗(あせ)はほとんど出ません。
肌(はだ)が乾燥してくると、突き(つき)刺さる(ささる)綿(わた)の樹が余計(よけい)痛く(いたく)感じ(かんじ)られます。
楊さんの手(て)や腕(うで)に無数(むすう)の擦り(する)傷(きず)がつきました。
昼(ひる)に配(くばり)られるのは蒸しパン二個(にこ)です。
昼食(ちゅうしょく)がそれぞれの作業(さぎょう)に合わせて(あわせた)取ります。
飲み物は朝宿舎(あさしゅくしゃ)を出発(しゅっぱつ)する時(とき)瓶(びん)に詰めてきた水(みず)です。
蒸しパンを食べ終えるとみんなすぐに作業に戻り(もどり)ます。
強い日差し(つよいひざし)、厳しい(きびしい)労働(ろうどう)、貧しい(まずしい)食事(しょくじ)、体調(たいちょう)を崩す(くずす)人もいます。
雪(ゆき)のように見える(みえる)のは綿花です。
綿花は丸一日(まるいちにち)天日(てんぴ)で乾燥させ、ごみなどを取って(とって)出荷し(しゅっかし)ます。
総て(すべて)出稼ぎ女性(じょせい)たちが摘み取った(つまみとった)綿花です。
中国の綿花の生産(せいさん)高(たか)は世界(せかい)の四分(よんふん)の一、最大(さいだい)の生産地(せいさんち)がここ新疆ウイグルです。
日本、インドネシア、韓国(かんこく)などに輸出(ゆしゅつ)されます。
綿花の摘み取りはアメリカなどでは機械(きかい)がされています。
しかし、手で(てで)一つ一つ(ひとつ)摘み取るほうが綿花が崩れず(くずす)。
質のよい製品(せいひん)に仕上がり(しあがり)ます。
収穫(しゅうかく)にも徒(あだ)がありません。
綿花摘みの仕事(しごと)を初めて一月(ひとつき)近く(ちかく)経ち(たち)ました。
楊さんはなかなか要領(ようりょう)が攫め(つかめ)ません。
一日の収穫は多い時(とき)で四十キロ。
日本円にして三百五十円ほどです。
畑仕事に馴染ん(なじん)できた年長(ねんちょう)の女性たちは楊さんの倍(ばい)以上(いじょう)は摘み取ります。
綿花は枝(えだ)先(さき)から順々に(じゅんじゅんに)殻(から)を破って(やぶる)弾け(はじけ)ていきます。
そのため、一本(いっぽん)の樹を三回に分けて(わけて)摘み取ります。
根元(ねもと)になるほど腰(こし)を深く(ふかく)曲げる(まげる)きつい作業になります。
地平線(ちへいせん)の彼方(かなた)に日が沈む(しずむ)と作業は終わり(おわり)です。
一日の収穫量は綿花を栽培する地元(じもと)の農民(のうみん)によって計られ(はかる)、ノートに記入(きにゅう)されます。
数字(すうじ)が間違ってい(まちがう)ないか、また自分(じぶん)の一日の働き(はたらく)がいくらになったか確かめ(たしかめる)ます。
九月の終わり(おわり)、初めて雨(あめ)が降りました。
病気(びょうき)などでないかぎり、みんな一日も休みを取りません。
雨のこの日(ひ)は貴重(きちょう)な休日(きゅうじつ)となりました。
かんごのさん家では子供はあやしながら夫(おっと)とトランプをするのが楽しみ(たのしみ)でした。
これまでに摘み取っためんかの量(りょう)を確かめ(たしかめ)、どれだけの賃金になるのか計算(けいさん)する人(ひと)もいます。
河南省の村(むら)では僅か(わずか)な畑で作った(つくる)玉蜀黍(とうもろこし)や小麦(こむぎ)を売る(うる)しか、現金(げんきん)を得る(える)手立て(てだて)はありません。
四人(よにん)は近所(きんじょ)同士(どうし)です。
村では近く(ちかく)の煉瓦(れんが)工場(こうじょう)に働き(はたらく)に出かけましたが、半年(はんとし)働いても四百元、五千円にしかならず。
それで今回(こんかい)の出稼ぎに入れることにしまいました。
こさんと楊さんは瓜(うり)を採り(とり)に出掛け(でかけ)ました。
綿花畑の向こう(むこう)にある瓜の畑がいつも気になっていたのです。
畑には出荷(しゅっか)の時期(じき)を過ぎた(すぎる)瓜がたくさん残ってい(のこる)ました。
瓜を食べる場所(ばしょ)を探し(さがし)ます。
小高い(こたかい)砂山(すなやま)がありました。
砂山に登って(のぼる)みると、そこには思いがけない風景(ふうけい)が広がって(ひろがる)いました。
地平線(ちへいせん)の果て(はて)までどこまでも続いて(つづく)行く砂漠(さばく)。
その砂漠から広がっていく綿花畑。
自分(じぶん)たちは毎日あの広大(こうだい)な綿花畑のどこで働いてきたのか。
河南の私の村はこの先(さき)の一体(いったい)どこにあるのか。
食べようと思って持ってきた瓜のことも忘れ、二人はいつまでも遠く(とおく)を見詰めてい(みつめる)ました。
寒波(かんぱ)の突然(とつぜん)の襲来(しゅうらい)です。
この日気温(きおん)は氷点下(ひょうてんか)五度まで下がりました。
どんなに寒く(さむく)ても作業は続けられます。
かんさんも持って(もって)きた衣類(いるい)を総て(すべて)着込み(きこむ)ました。
綿花は素手(すで)でないと摘み取ることができません。
凍て付いた(いてつく)綿花は氷(こおり)のようです。
こうさんも一番(いちばん)厚手(あつで)のやっけを着(ぎ)。
マスクまで附け(つけ)ましたが、体(からだ)の芯(しん)まで冷え(ひえ)てきます。
楊さんは急に(きゅうに)襲って(おそう)来た寒波て体調(たいちょう)を崩し(くずす)。
作業(さぎょう)休みました。
宿舎で一人(ひとり)横になって(よこになる)いたのですが、寂しくなって(さびしい)、こうさんのいる綿花畑来てしまいました。
九月二十八日中秋(ちゅうしゅう)の名月(めいげつ)の日です。
出稼ぎに来ている女性たちのために地元(じもと)の人たちが中秋の集い(つどい)を開い(ひらく)てくれました。
いつもは白菜(はくさい)だけの夕食(ゆうしょく)に豚肉(ぶたにく)とじゃが芋(いも)が入れられます。
肉類(にくるい)を口にすり(くちにする)のは村を離れて以来(いらい)のことです。
出稼ぎに来て初めてのにぎやかな夜となりました。
カラオケの画面(がめん)をみんな一目(ひとめ)見ようと押し掛けます(おしかける)。
混乱(こんらん)の収まった(おさまる)後(あと)歌(うた)われたのは祖国(そこく)中国(ちゅうごく)を称える(たたえる)歌、大中国でした。
十月の末(すえ)、大雪(おおゆき)となりました。
気温は氷点下(ひょうてんか)十度です。
綿花畑も一面(いちめん)の銀世界(ぎんせかい)です。
綿花にとって雪は大敵(たいてき)です。
積もった(つもる)雪が解け(とける)、凝って(こる)しまうと、殻が弾け(はじける)なくなってしまうからです。
雪の翌日(よくじつ)いつも通り(とおり)綿花畑に向かい(むかい)ます。
作業は雪払い(はらう)から始まります。
気温が上がり(あがり)、雪が解ける(とける)前に払わなければなりません。
広い綿花畑の雪を総て(すべて)払い落とす(おとす)には二時間から三時間かかります。
殻が氷(こおり)ついているため、綿花を摘む(つむ)ことができません。
このため枝ごとを毟り取り(むしりとる)、宿舎に持ち(もち)帰って綿花を取り出します。
手間(てま)の掛かる(かかる)仕事です。
雪が降りだすと綿花摘みが終わる(おわる)のも(は)。
もう間近(まぢか)です。
終わりが見えてきただけに、後どれだけ稼げるのか、時間との競争(きょうそう)です。
地元(じもと)の農民にとっても日が限られ(かぎる)てきたのは同じ(おなじ)です。
どの畑から摘んでいくかを巡って(めぐる)、農民同士(どうし)で喧嘩(けんか)になってしまいました。
この諍い(いさかい)でこれれさんは担当(たんとう)の畑を何度も変えられ(かえる)てしまいました。
いつも親切(しんせつ)にしてくれる年長の女性たちも余裕(よゆう)がありません。
ごさんは途中(とちゅう)で仕事を投げ(なげ)出して(なげだす)しまいました、初めてことです。
後少し(すこし)しか日は残って(のこる)いないのに持って帰ったのは僅かばかりの凍りついた(こおりつく)綿花でした。
どうして私に仕事をさせてくれないのか。
宿舎には病気(びょうき)で休んでいる人がいました。
こさんを抱いて(だく)慰めて(なぐさめる)くれました。
十一月十三日、綿花の摘み取りが終わりました。
この日,摘み取った綿花の総量(そうりょう)と支払われる(しはらわれる)賃金(ちんぎん)が知らされます。
摘み取った綿花は一番多い人は五トン、少ない人で一トンでした。
十七歳の楊静さん炎天(えんてん)の日から雪の日まで働き続けました。
摘み取った綿花はおよそ二トン、金額(きんがく)にして一万八千円(はっせんえん)、旅費(りょひ)や食費(しょくひ)を引かれ(ひく)手元(てもと)に残るのは九千円ほどです。
村に帰る日を前に近く(ちかく)の町(まち)のデパートにお土産(おみやげ)を買いに出掛けました。
エスカレーターに乗るのはもちろん、デパートで買い物をするのも初めてです。
かんこなさんは自転車(じてんしゃ)の売り場(うりば)にきました。
娘のファンファンちゃんにどんな自転車を買ってあげればいのか見るためです。
楊さんはこの日一人宿舎に残っていますた。
欲しかった(ほしかった)携帯電話(けいたいでんわ)はもう要らないという楊さん。
込み上げてきた(こみあげる)思いはなんだったのか言葉(ことば)になりませんでした。
背負った(せおう)袋(ふくろ)に詰められたのは持ってきた作業服に薄い布団、そして、夫や子供へのお土産です。
新疆ウイグル自治区から河南省まで三千五百キロ。
三ヶ月(さんかげつ)の出稼ぎにをおえ、女性たちの旅がまた始まります。
来年の春(はる)の種(たね)を蒔き(まく)に備え(そなえる)、綿花畑が耕されて行きます(たがやす)。
河南省の労務輸出によって新疆ウイグルへ出稼ぎに来た女性の数(かず)は八万二千。
厳しい(きびしい)労働(ろうどう)に耐え(たえ)、お金を手に心(こころ)をはず焦って(あせる)帰った女たち。
明日(あす)の私が分からなくなったという少女(しょうじょ)。
来年厳しい日差し(ひざし)が照り付ける(てりつける)時、また多くの女(おんな)たちがこの畑で綿花を摘みます
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